青鈍の指貫
(あおにびのさしぬき)





完成した指貫にと袿を重ねてみました。

平安時代の古典には「青鈍の指貫(あおにびのさしぬき)」
という袴の記述がとてもよく出てきます。

しかし、現代では「青鈍の指貫」を見ることはほぼ皆無です・・・。

平安実践のためには必須と考えていたところにちょうど良い
布を入手しました。
縦横糸の色をそれぞれ青(現代でいうところの青)色と白で
文様を織り上げてある布です。
つまり、光の角度でグレーにも紺色のような色にも見えるという
ことです。
まさに、「青鈍(あおにび)」。
後ほど詳しく書こうと思いますが、現代の古典の辞書に説明されている
「あお鈍」は平安時代とは同じ色を指していないと私は考えています。

今回は、熊野速玉大社に残されている室町時代の遺品を参考に
以前縫った指貫(さしぬき)などとも詳しく比較し、
平安と室町と現代の指貫(さしぬき)の好みの部分をいいとこどりで
縫ってみました。ここでは「承香院流」としておきます(笑)

やはり、重要なポイントがいくつもありましたので、制作過程の中で
ご紹介したいと思います。



「年中行事絵巻」より


ここでは年中行事絵巻を参考に挙げましたが、青系統の
指貫は古典には頻出です。
なんと、居並ぶ貴族達は皆、
青系統の指貫(さしぬき)を
はいています。

むしろ、現代に見られるような紫系統の指貫を古い絵巻では一度も見たことがありません。


←      →
今回使用した生地です。

光の当たり方で青系統が強くなる場合と、グレーが強くでル場合とがあります。

絵巻に銀粉を用いて、光の当たりかたで、絵巻の装束の文様が変わって見えるというようなことが、国宝源氏物語絵巻の復元の解説で言われていましたが、実際の装束もそうだったのかと実感できます♪

裏地は一般的な「紺色」にしました。


バランス的には、こんな感じです☆
うんちくコーナーです。

「青鈍」という色について、冒頭でも述べましたように、
私は現代説明されている「青鈍」と平安の「青鈍」とは
同じ色を指していないと考えています。
平安時代の文学を研究されている人はお分かりいただけると
思いますが、平安時代の単語は言葉の語源や成り立ちにかなり
忠実な意味で単語を使用していることがわかります。

色においてもさらなり、だと私は考えます。
「青鈍」といえば、「青色」に「鈍色」です。
赤紫などと同じ単語の成り立ちだと思うということです。

「青」にも色々な説がありますが、私はこの場合の「青」は
私達のイメージする青でよいと思います。
今で言う緑を「青」と表現する場合は、「色の厳密な識別」として
使用しているわけではないと古典などの表現から感じるのです。
詳しい主張や例、考察をここで書くと長くなってしまうので、
とにかく、ここで定義する私の考える「青鈍」は「青色と鈍色」とが
交ざり合った色だとご理解ください。

つまり、青色とグレーが混在したような色ということです。

最近、メールで
「糸所で縫われている装束は、縫いかけの状態や
保管しておくのはどのようにされているのですか」と
お尋ねがありましたので、見た目にきれいでない部分も公開
してしまいます・・・。大サービスです。
まず、資料でぐちゃぐちゃになりながら、色々な時代の装束を比較したり、寸法や構成技法を比較します。
そして、その度ごとにコンセプトを決めて裁ち図や縫製の手順を決めます。

「承安五節絵」より指貫部分

作業を中断したりするときには
標つけと裁断が終わった布は
こうして各パーツに分けて丸めて
保管するようにしています。

ズボン状に縫い上がっているのがお分かりいただけ
ますでしょうか。
因みに真ん中に横に置いてあるのが1メートル定規です。
これまで、指貫(さしぬき)と思われる袴の遺品をいくつか縫ってみて、気づいたことがあります。
「古い指貫は、8幅。比較的新しい指貫は6幅からできているという説がありますが、承香院様にはいかが思われますか」
というお尋ねを受けたことがあります。
両方縫ってみました。この答えがわかりました! 縫ってみて、穿いてみて、考察してみてやはりわかりました!
答えは、延喜式にもありました。
つまり、「布を何枚縫い足すか」というのは全く問題ではなく「裾口が何尺何寸なのか」が問題なのです。

延喜式に袖口や裾口の広さを定める箇所がありますが(一般的に袖口の広さばかりが取り上げられますが)、裾口も
目的の広さにするために、目的の広さになるように布を増減したということです。
つまり、最初に布を何枚継ぎ足して8幅にするのか6幅にするのかではなく、目的の幅に作るためなら6幅でも8幅でも10でも20でも継ぎ足せばよいということです。

ということだと私確信しております♪
また、袖口と裾口を同じ様な感覚でとらえているということが、次なるポイントです☆

今回「襠(まち)」をつけました。
画像中心の直角三角形みたいな部分です。

現存する指貫の遺品には襠がついていたり、いなかったり
なのですが、私は、当時は襠がついていなかったと思います。
反物の関係などからです。
また、もしついていたとしても表地とは別布だったと思います。

したがって、共布で思いっきり襠をつけたという意味では、
古式ではありませんが、ここは「好み」ということで。
つまり承香院流でいきました。

少しずつ襞(ひだ)をとっていきます。
襞も遺品によって異なっていますが、
複数の遺品を参考に縫ってみるとポイントが
わかってきます。
熊野の遺品は前と後ろで襞を同じようにとっています。私の考えでは、前と後ろで襞の取り方は違うと
現在は考えていますが、引き続き研究が必要です。

今回は、熊野の遺品とは異なり、前後で襞の取り方
を変えました。

腰紐は当時は絶対に供布ではなかったと断言できるほどの
確信を持っていますが、「自分的好み」から今回は同じ裂地を
使って腰紐をつけました。

今回のポイントの「裾(すそ)」です。
袖口と同様に考えられていた「裾」を
おめり(裏地を少し出して仕立てる方法)
仕立てにしました。
「おめり」の意味合いも中世の「おめり」と
感覚が違うことが遺品を見れば明らかですが、
今回は現代の「おめり仕立て」にしました。

ポイントは、「袖口と同じ発想だ」ということなので、
現代風でもご容赦くださいませ♪

紐を通して、完成!
腰紐にも上刺しの紐をつけました。
中世は上刺しは紐ではなく、「太めの糸」だったであろうことは
遺品を見ればわかりますが、ここも見た目の華やかさ
からあえて現代風で。

上刺しのポイントは「1本」ということと
襞を押さえつけるように縫われていることがポイントです☆
つまり、当時は装飾ではなく、完全に実用。
つまり腰紐と袴本体を止めるだけの重要な糸だったということと
このような簡単な止め方だったことで腰紐の交換が容易であった
という非常に理にかなった作り方になっています。

裾の様子もご覧の通りです♪

裾の襞(ひだ)をのばしてしまうとご覧の通りです。
とっても広い裾口になります。
畳の幅から比較しても裾口の広さが
お分かりいただけると思います。


完成です!



着装!!

白小袖に指貫(さしぬき)を
穿いてみました。

括り紐をくくっていない状態です。

括り紐を絞り、平安的な穿き方にしてみました♪
刷いた後姿は自分でも写真に撮らないと分からないので
こうして画像でみて、なるほど!納得です!


指貫に単と袿を着て
脇息にもたれて
くつろいでみました♪

青鈍の御指貫に
紅の単、朽葉の御袿を奉りておはしますに・・・

っといった風情でしょうか。


やはり指貫は、着たところでないと雰囲気がでないですね☆



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